外務省: 外交史料 Q&A 明治期 您所在的位置:网站首页 1902年4月6日 外務省: 外交史料 Q&A 明治期

外務省: 外交史料 Q&A 明治期

2024-03-19 20:37| 来源: 网络整理| 查看: 265

本文へ 御意見・御感想 サイトマップ リンク集 English Other Languages 文字サイズ変更 小 中 大 外務省について | 会見・発表・広報 | 外交政策 | 国・地域 | 海外渡航・滞在 | 申請・手続き トップページ>外務省案内>外務本省 外務本省 外交史料 Q&A明治期 1900年代~1912年(明治33年~45年頃) Question  義和団事変後に清国政府から日本政府へ支払われた賠償金は文化事業に用いたそうですが、これに関する記録はありますか。

Answer

 1900年(明治33年)に勃発した義和団事変(北清事変)の結果調印された最終議定書により、清国は列強各国に対して4億5000万両(テール)の賠償金(日本への分配額は約3500万両)を支払うことになりました。その後日本政府は、同賠償金の一部を中国に対する文化事業に用いる方針を決定し、1922年(大正11年)、その旨を中国側に通告しました。外務省記録「各国ノ団匪賠償金処分関係雑件」にはこの問題に関する記録が含まれています。  なお、外務省は、この事業実施のため省内に「文化事業部」を設置しており、その経緯は、外務省編『外務省の百年』に記されています。

北清事変最終議定書 1901年(明治34年)9月7日

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Question  1902年(明治35年)に結ばれた第1回日英同盟協約の中に、秘密交換公文があったというのは本当ですか。

Answer

 第1回日英同盟協約は、6か条の本文と交換公文からなり、協約本文は締結直後に公表されましたが、交換公文は公表されませんでした。この秘密交換公文の内容は、日英両国海軍の平時における協力を約したものです。第1回日英同盟協約の協約文は交換公文も含め、『日本外交年表並主要文書』上巻に採録されています。また締結交渉に関する文書は外務省記録「第一回日英協約締結一件」の中にあり、そのほか外交史料館所蔵「林董関係文書」の中にも、駐英公使として交渉に携わった林が所持していた「日英同盟協約関係書類」40点が残っています。

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Question  日露戦争直前の1903年(明治36年)12月に、日本はアルゼンチンから軍艦2隻を購入したそうですが、その記録は残っていますか。

Answer

 外務省記録「各国ヘ軍艦建造並ニ購入方交渉雑件」に関係文書が残されています。  1903年12月、チリとの和平協定により軍艦2隻を手放さなければならなくなったアルゼンチン政府は、イタリアで建設中であった軍艦「モレノ」(Moreno)・「リヴァダヴィア」(Rivadavia)の売却を決定しました。ロシアとの開戦に備えて軍艦の補充を望んだ日本海軍は、この情報を得ると直ちに林董(はやし・ただす)駐イギリス公使を通じてこれらの購入交渉を進めるよう小村寿太郎外務大臣に依頼しました。外務省もこれに応じ、当時日本と同盟国であったイギリスが協力したこともあって、契約は年内に締結されました。  日本が購入した2隻の軍艦はそれぞれ「モレノ」が「日進」へ、「リヴァダヴィア」が「春日」へと改名され、1904年(明治37年)1月9日、日本に向かって出航し、翌月16日横須賀に入港しました。航行中に開戦することを警戒したロシアの軍艦が追尾していたため、イギリス艦に護衛されながらの航行でした。  2隻の入港を国民は熱烈に歓迎し、両艦の乗組員を招いた盛大な歓迎会が連日開かれました。特に横浜公園で催された会では、その光景を一目見ようと参集した人々によって公園が満たされたと記録には書かれています。  「日進」・「春日」は日露戦争において旅順攻略や日本海海戦に参加しました。日本海海戦の際、「日進」には山本五十六(当時は高野五十六)が乗船しており、戦傷を負ったことが知られています。  日露戦争後、両艦は軍艦としての第一線を退き、第一次世界大戦やシベリア出兵では友艦の護衛や警備活動を担いました。その後、「日進」は1935年(昭和10年)に除籍となるまで練習艦や標的艦として使用されました。「春日」は、1925年(大正14年)に練習艦に指定され、1934年(昭和9年)にはローソップ島での日食観測支援に従事するなどし、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)7月に爆撃を受けて沈没するまで使用されていました。

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Question  明治時代に、オーストラリアで真珠貝採取に従事した日本人の記録はありますか。

Answer

 外務省記録「移民関係雑件」、「豪州木曜島及「ポートダウイン」へ本邦移民出稼一件」、「豪州連邦政府ニ於テ木曜島真珠採貝会社被雇本邦移民入国特許一件」などに、明治時代に真珠貝採取に従事するためにオーストラリアに渡った日本人の記録が残されています。  明治時代には、多くの日本人が「移民会社」と呼ばれた業者を通じ、移民として真珠貝採取のためにオーストラリアの木曜島(Thursday Island)、ポート・ダーウィン(現在のダーウィン)、ブルームなどに渡っていました。1904年(明治37年)に木曜島への渡航が許可された人の契約書によれば、契約期間は3年、1日の労働時間は日の出から日没までを限度とすること、1ヶ月の賃金は1年目31シリング、2年目39シリング、3年目40シリングとすること、渡航に要する費用及び契約満期後に帰国に要する費用は雇用主が負担すること、契約期間中200円以内であれば日本の家族に送金しても良いことなどが定められていました。  しかし、オーストラリアでは当時、中国人や日本人の労働者流入への危機感から白豪主義とよばれる有色人種差別の動きが勢いを増しており、真珠貝採取に携わる日本人労働者の渡航や活動にも多くの制約が課せられていました。また、過酷な労働条件のために、多くの日本人労働者が潜水病などがもとで帰国せぬまま現地で亡くなりました。

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Question  20世紀初頭にトルコで諜報活動をしていた山田寅次郎に関する記録はありますか。

Answer

 日露戦争の最中、山田はトルコのコンスタンチノープルで、ロシア艦隊の動静を探っていました。山田が入手した情報は、1904年(明治37年)11月に外務省の電報を通じて東京に送られました。この電報は外務省記録「日露戦役関係露国黒海及義勇両艦隊ノ動静関係雑纂」の中にあります。

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Question  戦前に日本が批准した病院船に関する条約について教えてください。

Answer

 病院船とは、傷病者および難船者に援助を与え、治療し輸送することを唯一の目的とした船舶のことで、1899年(明治32年)7月に日本を含む26ヵ国によって締結された「1864年2月2日ジュネーブ条約の原則を海戦に応用する条約」によって、交戦時における尊重など同船の性格と役割が規定されました。病院船には軍用、私有、中立国の三種類があります。  さらに、1904年(明治37年)12月21日には、ハーグにて「病院船に関する条約」が調印されました。この条約は、前述の条約で規定された病院船の条件を備えた船舶に関して、戦時中、条約締約国の諸港において当該国家の課税が免除されることを規定しています。日本は条約の調印から約1年後の1906年(明治39年)3月28日に批准しました。  この「病院船に関する条約」の成立経緯については、外務省記録「万国病院船会議一件」に関係文書が含まれています。

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Question  2004年(平成16年)は日露戦争が開戦した1904年(明治37年)からちょうど100年目に当たりますが、日露戦争の宣戦布告に関する記録はありますか。

Answer

 1904年2月6日、日本はロシア政府に国交断絶を通告し、2月8日に旅順港外でロシア艦隊への攻撃を開始しました。その後、2月10日に至り日露両国はそれぞれ宣戦を布告しました。この関係文書は外務省記録「日露両国宣戦布告一件」にあります。また宣戦布告の詔勅文は『日本外交文書』「日露戦争」に収録されています。

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Question  日露戦争当時、外務省の職員は何人くらいでしたか。

Answer

 外務省作成の「外務省職員録」には外務本省および在外公館の各職員名が記されています。1904年(明治37年)8月時点の「外務省職員録」を見ると、約400人の職員が勤務していました。

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Question  日露戦争中の1904年(明治37年)、ロシア帝国政府に反対する勢力がパリに集結して開催したという連合会議について教えてください。

Answer

 日露戦争中、欧州各国の日本公使館からは多くのロシア情報が日本政府にもたらされました。当時駐フランス公使であった本野一郎も、ロシアの内情について日本政府に多くの報告をしています。  1904年9月30日より10月5日までロシア帝国内外の革命勢力が反政府連合会議をパリで開催した際も、本野公使はこの会議について、10月23日付で小村寿太郎外務大臣に報告書を送りました。  報告書によれば、この連合会議は、ロシア帝国内の被圧迫民族と革命派とが結束をはかるために開かれたもので、ロシアから立憲党と革命社会党が、ポーランドから国民同盟会と社会党が参加し、他にもグルジア、アルメニア、フィンランド各民族の革命派代表が出席していました。  この会議の「連合決議」は、ロシア帝国政府が、日露戦争という「冒険政策」によって信用を失墜し、勢力を減退しているとし、各反対党の行動を調和すべき好機であると述べています。そしてそれに続けて、ロシア専制政体の廃止、一般選挙に基づく自由民主政体の選択、ロシア帝国内の各民族への自治権付与といった全会一致の要求が宣言されています。  反政府連合会議についての本野公使の報告書は、関連記録とともに外務省記録「各国内政関係雑纂 露国ノ部」に残っており、また『日本外交文書』第37巻(明治37年)第二冊に採録されています。

本野一郎

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Question  日露戦争時のマカロフ(Stepan O. Makarov)中将の戦死に関する記録はありますか。

Answer

 ロシア太平洋艦隊長であったマカロフは日露戦争時、旅順港をめぐって日本軍と激しい戦闘を繰り広げました。1905年(明治38年)4月13日、乗船した旗艦「ペトロパウロ」が、水雷に接触、沈没し、ここにマカロフは部下650名と共に戦死しました。このマカロフ戦死に関する記録は、外務省編『日本外交文書』「日露戦争 IV」第10節雑件に収録されています。ちなみに、この間の攻防は、港の狭い海路に船を沈めて同港を閉鎖しようとする日本軍の作戦(旅順口閉塞作戦)として有名です。

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Question  日露戦争の際に捕虜となった日本人の名簿を探しています。

Answer

 外務省記録「日露戦役ノ際露国ニ於テ俘虜情報局設置並ニ俘虜関係雑纂」の中にあります。

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Question  日露戦争の際に日本軍の捕虜になったロシア兵に日本政府が給料を払っていたというのは本当ですか。

Answer

 日本政府から支出されたということではありませんが、日露戦争の際には、フランスがロシアの利益代表国になっていましたので、ロシア政府からフランスを通じて日本政府に捕虜になっていたロシア兵の給料が送られました。その給料を日本政府が捕虜に渡したわけです。関係記録としては外務省記録「日露戦役ノ際帝国ニ於テ俘虜情報局設置並俘虜関係雑纂」があります。

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Question  金子堅太郎が書いた「日露戦役米国滞留記」という史料を探しています。

Answer

 外務省記録「日露戦役関係各国輿論啓発ノ為末松、金子両男爵欧米へ派遣一件」に綴じられています。  金子堅太郎(1853~1942)は、1871年(明治4年)に岩倉遣外使節団に随伴して渡米し、1878年(明治11年)にハーヴァード大学法学部を卒業。帰国後には明治憲法の起草に携わったほか、貴族院議員、農商務大臣などを務めました。1904年(明治37年)に日露戦争が勃発すると、金子は政府の内命を受けて渡米し、ハーヴァード大学の同窓生として親交の深かったセオドア・ローズヴェルト(Theodore Roosevelt)大統領に接触して日本とロシアとの講和斡旋を促したほか、米国の輿論が日本に対して友好的となるよう尽力しました。「日露戦役米国滞留記」には、ロシアとの開戦を閣議決定した当日(1904年2月4日)に伊藤博文首相から渡米を依頼されるところから、1905年(明治38年)10月16日に小村寿太郎外相と共に帰国するまでの金子の活動が詳細に記されています。

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Question  日露講和条約(調印書、批准書)のサイズを教えてください。

Answer

 条約書を閉じた状態での原本実寸は、調印書が、縦35センチメートル×横24.8センチメートル、批准書が、縦43.4センチメートル×横33センチメートルです。なお、調印書本文は12ページ、批准書本文は24ページからなっています。  ちなみに、条約書批准書につながっている金属の缶を蝋缶(ろうかん)といいます。蝋缶には、蜜蝋(ミツバチの巣から搾取した蝋)が入っており、その上に国璽(国家の表章として押す官印)が押されています。この国璽によって、当該国家が同条約を認証したことになります。金属の缶はこの蝋に押された国璽を保管するためのもので、その蓋には国璽と同紋様が付されていることが多く、条約書からつながる紐は蝋缶を貫通して、その先端が総状の飾りとなっています。

日露講和条約批准書

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Question  1905年(明治38年)、日露戦争が休戦状態に入った時期に日米間において交わされたいわゆる「桂・タフト覚書」はありますか。

Answer

 「桂・タフト覚書」は、当時の首相桂太郎と来日したアメリカの陸軍長官タフトとの間で交わされました。この覚書は、アメリカが日本の韓国における指導的地位を認め、日本がフィリピンに対し野心のないことを表明し、日露戦争後の両国の対アジア政策を調整した重要な覚書ですが、残念ながら日本側原本は消失しています。そのため、外交史料館で編纂している『日本外交文書』第38巻第1冊(明治38年)には、アメリカの外交文書から同覚書を引用しています。

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Question  日露戦争で戦没したロシア人戦没者のために日本が慰霊碑を建立したというのは本当ですか。

Answer

 本当です。  日露戦争において最大の激戦となった旅順の戦いで日本とロシアは、ともに多数の死傷者を出す結果となりました。1905年(明治38年)1月の旅順開城後、同地の日本軍は日露両国戦死者の遺骸処理を開始し、仮埋葬と木製墓標の設置を行いました。しかし、その多くが暴かれて盗掘などの被害に遭ったため、同年末、関東総督の大島義昌が、ロシア人戦没者の遺骸を墓地に収容し丁重に保存すべしとの訓示を出すとともに、「露兵陣歿者遺骸収容及墓地保存規定」を設けました。  その後日本政府は、旅順におけるロシア人墓地を改葬して慰霊碑を建立することを定め、1906年(明治39年)8月、旅順要塞司令官の税所篤文(さいしょ・あつぶみ)を委員長とする旅順陣歿露兵遺骸合理委員会を設置してその実施にあたらせました。これにより、1908年(明治41年)3月に「旅順陣歿露軍将卒之碑」が完成し、同年6月10日、日露両国代表者参列の中、除幕式が挙行されました。この間の経緯については、外務省記録「旅順ニ於ケル露国戦死者弔魂碑除幕式挙行一件」に関係記録が含まれています。  また、その他にも、日本の捕虜収容所で亡くなったロシア人捕虜のための慰霊碑が浜寺(現在は堺市に編入)、松山、名古屋のロシア兵士墓地に建立されたほか、高野山でも建立が計画されました。これらについては、外務省記録「日露戦役ノ際帝国ニ於テ俘虜情報局設置並俘虜関係雑纂」および「高野山ニ日露両国戦病死者ニ対スル如意宝珠塔建立方ニ関シ同山常喜院住職伺出一件」が当時の動きを詳細に伝えています。

「旅順陣歿露兵弔魂碑設計図」

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Question  1907年(明治40年)、日英同盟に基づいて日英間に軍事協定が結ばれたと聞きました。それはどのようなものだったのですか。

Answer

 1905年(明治38年)に調印された第2回日英同盟協約には、軍事的支援の条件及び方法については両国の陸海軍当局者の間で協定するという規定がありました。日本政府は、1907年の伏見宮貞愛(ふしみのみや・さだなる)親王の訪英の機会に、この規定に基づく軍事協定締結を希望する旨英国側に伝え、その同意を得ました。伏見宮に随行した陸海軍の代表団は、同年5月29日より、英国側の陸海軍当局者とそれぞれ協議を開始しました。  陸軍事項については日本側西寛二郎(にし・かんじろう)大将と英国側リットルトン(Sir Neville Gerald Lyttleton)大将らの委員が、海軍事項については山本権兵衛(やまもと・ごんべえ)大将とフィッシャー(Sir John A. Fisher)元帥らが協議を行い、それぞれ議定書・覚書を決議しました。陸軍議定書は運送船や鉄道資材援助についての日本側要求を含む3カ条、海軍覚書は海軍作戦の本旨や保持すべき海軍力の水準の明確化など13項からなっています。  上記軍事協定締結交渉の記録は外務省記録「第二回日英協約締結一件」(松本記録)に収められており、また、関係文書が『日本外交文書』第40巻(明治40年)第一冊に収録されています。

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Question  1907年(明治40年)に日本とフランスの間に締結された条約について教えてください。

Answer

「日仏協約」秘密説明書

 1907年6月10日に日本とフランスの間で調印された条約は、「日仏協約」といい、本文・付属宣言書・秘密説明書からなる日仏間の政治協約です。  ロシアが日露戦争に敗北して極東における列強の勢力配置が変わると、フランスは欧州における英国・ロシアとの三国協商路線に日本を取り込むことで、ドイツに対する優位を確保しようとしました。フランスは日露和解の調停を図りつつ、日本政府に交渉をもちかけ、日本政府も将来の対中国政策を有利にするためフランスの信頼を得ておきたいと考え、これに応じました。  当初フランスが日本に示した協約案は、  (1)清国の安全と独立の尊重  (2)日仏両国が主権・保護権を有しかつ清国領土と直接境界を接する地域の秩序と平和的発達の維持 が定められているだけの簡単なものでした。この「直接境界を接する地域」にインドシナと韓国が含まれることは明白であり、フランスの意図はインドシナの保全につき日本の諒解を得ることにありました。これに対し日本側は、日仏通商条約において適用外とされていたインドシナでの最恵国待遇と、清国福建省の日本側特殊利益を認める秘密文書の付属を求めました。  その後の応酬の結果、最恵国待遇についてはフランス側が付属宣言書とすることを希望し、日本もこれを認めました。また福建省の特殊利益を秘密文書とすることについてはフランスが拒否し、福建省が「両国の秩序及び平和の維持を特に希望する清帝国地方」中に含まれるという表現にとどめた秘密説明書を付すことで決着しました。  この秘密説明書は、1922年(大正11年)、「中国に関する九国条約」が調印されるに伴い削除されましたが、協約自体の効力は持続しました。しかしその後、満州事変、日中戦争が勃発し、中国をめぐる事態が深刻化すると、協約は有名無実化してゆくことになります。  「日仏協約」の交渉から締結までの経緯を示す文書は『日本外交文書』第40巻(明治40年)第一冊に収録されています。また、昭和戦前期の外務省記録「日、仏協約関係一件(千九百七年)」(アジア歴史資料センターのホームページでも御覧いただけます)にも、協約についての調書が綴られています。

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Question  1908年(明治41年)の「高平・ルート協定」について教えてください。

Answer

 日露戦争(1904-05)後、アメリカ国内では、日本人移民問題などをめぐって排日気運が高まりました。このような事態を危惧した日本政府は、1908年、「一般米国人ヲシテ不安ノ念ヲ去ラシメ以テ排日論者ヲシテ煽動又ハ離間ノ余地ヲナカラシメ日米永遠ノ和親ヲ維持スル」ために、アメリカとの間に取り決めを結ぶべきと考え、その交渉にあたるよう高平小五郎駐米大使に訓令しました。高平大使は、ルーズベルト(Theodore Roosevelt)米大統領に協定草案を示してその趣旨に賛同を得た後、ルート(Elihu Root)米国務長官との間で交渉を進めました。その結果、同年11月に「太平洋方面に関する日米交換公文」(いわゆる「高平・ルート協定」)が成立し、日米両国間で、太平洋における商業の自由平穏な発展や現状維持、中国における商業の機会均等、両国領土の尊重など5項目が確認されました。  この「高平・ルート協定」の成立経緯については、『日本外交文書』(明治41年)第1冊に関係文書が採録されています。

高平小五郎 「高平・ルート協定」 米国国務卿より帝国大使宛来簡(左)と帝国大使より米国国務卿宛往簡写(右)

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Question  明治末期、清国に陶磁器教習として雇われていた「安田乙吉」「大丸谷理吉」「馬場梅吉」という3人の日本人のことを調べています。

Answer

 これらの日本人はいずれも湖南省の「湖南醴陵(れいりょう)磁業公司」に雇われていたことが、外務省記録「外国官庁ニ於テ本邦人雇入関係雑件」から分かります。この陶磁器製造会社には1909年(明治42年)当時5名の日本人が雇用されており、安田乙吉は「製陶法教授」として1906年(明治39年)3月より、大丸谷理吉は「模範職工」として同年9月より、馬場梅吉は「轆轤(ろくろ)成杯教授」として1908年(明治41年)11月より、それぞれ勤務していたと記録されています。  このうち、安田乙吉は、東京高等工業学校窯業科を優等で卒業したのち農商務省に勤務し、その後、京都陶磁器試験場技師であった時に「醴陵磁業学堂」の総教習として清国に招かれた人物でした。安田は「醴陵磁業学堂」で製陶技術教授にあたる傍ら、苦心しながらも付設の試験場で使用する良質の原土を発見し、「醴陵磁業公司」開設と湖南における陶磁器産業の興隆に寄与しました。このことは外務省記録「陶磁器関係雑件」に記されています。

1909年当時の「醴陵磁業公司」の外観

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Question  1909年(明治42年)に米国を訪問した日本の実業団一行がカナダに立ち寄った記録を探しています。

Answer

 1908年(明治41年)の米国商業会議所実業団による日本訪問が成功裏に終わり、その答礼として、渋沢栄一を団長とする日本の実業者及び名士からなる総勢およそ50人の一行が、1909年(明治42年)9月から11月にかけて米国を訪問しました。この実業団訪米の記録は、外務省記録「米国太平洋沿岸連合商業会議所ヨリ本邦名士招待接伴一件」に所収されています。  同記録によれば、カナダは当初予定された公式の訪問先には含まれていませんでした。しかし、一行の来訪を希望していたカナダ政府は、一行がナイアガラの滝を訪れた機会(10月6日)をとらえて政府賓客として午餐会に招くなど、一行を厚くもてなしました。これに対して渋沢団長は、カナダ政府による歓待に謝意を述べるとともに、日加両国の友好関係を強調した挨拶を行ったと伝えられています。  その後も一行のうち4名が、オタワやトロント、モントリオールなどカナダの各都市を訪問して製造工場や学校を視察しました。当時の記録には、その際カナダ政府により特別列車が提供されるなど非常に好意的な待遇を受けたことを伝える報告などが残されています。

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Question  明治末期、当時の東京市からワシントンとニューヨークに桜が寄贈されたそうですが、その経緯を示す記録はありますか。

Answer

 明治期の桜の寄贈に関する記録は、外務省記録「帝国及諸外国人間物品贈答雑件」に収録されています。  1909年(明治42年)の春、タフト大統領夫人をはじめとする米国の婦人グループは、ワシントンを流れるポトマック川のほとりに公園を整備するにあたり、日本から桜を買い入れて植樹する計画を立てていました。この計画を伝え聞いた水野幸吉(みずの・こうきち)在ニューヨーク総領事や高平小五郎(たかひら・こごろう)駐米大使は、植樹される桜を日本から寄贈すれば、長らく日米友好の記念になると考え、日本の首都である東京市の名義で桜を寄贈することを、外務本省に意見具申しました。  外務省からの照会に対し、尾崎行雄(おざき・ゆきお)東京市長が快く同意したため、1909年11月、東京市で選り抜かれた2000本の桜が、横浜から出発しました(翌年1月米国着)。ところが、到着した桜を米国農商務省の専門家が検分したところ、害虫が多種発生しており、消毒も植樹も不可能と判断されたため、やむを得ず輸送された全ての桜が焼却処分されました。  この結果は、米国大統領夫妻をはじめとする関係筋を落胆させました。そこで、外務省は再度東京市に桜の寄贈を依頼し、同市もこれに応じました。そして、1912年(明治45年)2月、改めて3000本の桜が東京からワシントンに輸送されました。今度は全ての桜が無事に現地に届けられ、大統領夫人からは東京市に感謝状が贈られました。また、これと同時にニューヨークにも桜が贈られ、ハドソン河畔の広場で贈呈式が行われたとの記録も残っています。  この桜の寄贈をきっかけに、ワシントンなどで定期的に桜祭りが開催されるようになり、現在に至るまで日米交流に一役買っています。なお、戦後の米国での桜祭に関する記録として、第17回外交記録公開で公開された外務省記録「諸外国における桜祭関係 ワシントン桜祭」などがあります。

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Question  1910年(明治43年)に締結された「船舶衝突ニ付テノ規定ノ統一ニ関スル条約」および「海難ニ於ケル救援救助ニ付テノ規定ノ統一ニ関スル条約」に関する記録はありますか。

Answer

 外務省記録「万国海法統一会議一件」、「国際海法会議一件」、「同 批准、加入及実施関係」等に関係記録があります。

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Question  第二次世界大戦で活躍した日本の戦艦12隻の中で、最も古い「金剛」だけは、国産ではなくイギリスから輸入されたそうですが、輸入した際の関係記録は残っていますか。

Answer

 「金剛」は1910年(明治43年)にイギリスに発注し、1913年(大正2年)に完成しましたが、その発注、契約、回航などに関する記録が外務省記録「各国ヘ軍艦建造並ニ購入方交渉雑件 英国」(第3巻)の中にあります。  なお、「金剛」は、建造当時巡洋戦艦に分類されましたが、後に改造され戦艦となり、第二次世界大戦中の多くの海戦で活躍しましたが、1944年(昭和19年)台湾海峡でアメリカの潜水艦により沈められました。

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Question  韓国の日本への併合を定めた「日韓併合条約」の原本はありますか。

Answer

 「日韓併合条約」の原本は、戦後アメリカにより接収され、現在日本にはありません。外交史料館には写真版のみがあります。

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Question  1911年(明治44年)に締結されたオットセイ保護条約の締結事情に関する記録を教えてください。

Answer

 外務省記録「猟虎(らっこ)及膃肭獣(おっとせい)保護国際条約締結一件」ほかの関係記録があります。

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Question  1912年(明治45年)に沈没した客船「タイタニック号」には日本人が乗っていたそうですが、そのことを裏づける記録はありますか。

Answer

 外務省記録「慰問関係雑件」には、タイタニック号事件への日本政府の対応を示す記録があり、その中に、タイタニック号に乗船していた唯一の日本人についての記述があります。  英国ホワイト・スター・ライン社の客船タイタニック号は1912年4月15日未明に沈没しました。沈没から3日後の18日、在英日本大使館の小池張造(こいけ・ちょうぞう)臨時代理大使は同号沈没の情報を日本の外務省に伝え、英国外務省に赴いて哀悼の意を表したことを報告しました。  これを受けて日本政府は、即時英国政府に同情の意を表するとともに、日本人乗船者の存在について照会したところ、ロシア留学よりの帰朝途中であった細野正文(ほその・まさぶみ)鉄道院副参事が救助され、ニューヨークに搬送中であることが判明しました。細野副参事は、同年6月に無事帰国しました。

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Question  1912年(明治45年)に日本の外交官がマダガスカルを調査したことがあるそうですが、この記録について教えてください。

Answer

 1912年6~8月、フランスのリヨンに在勤していた木島孝蔵領事が、マダガスカル島に出張して同島を視察しました。木島領事はリヨン帰任後、「マダガスカル視察復命書」を作成しました。この復命書は、第1編 政治・行政、第2編 経済事情、第3編 各州事情で構成される浩瀚な視察報告で、外務省記録「帝国官吏出張及巡回雑件 復命書之部 在里昂木島領事『マダガスカル』島視察報告ノ件」(里昂=リヨン)に収録されています。

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Question  中国の政治家で有名な孫文が日本に亡命していたことがあるそうですが、亡命していた時期の関係記録はありますか。

Answer

 孫文は、1911年(明治44年)に辛亥革命が勃発するとアメリカから帰国し、臨時大総統に選ばれました。しかし、翌年中華民国が成立し、袁世凱が大総統に選出されると、袁は独裁体制を強めたので、孫は第二革命を起こしましたが、失敗し日本に亡命しました。日本に亡命した当時の記録が外務省記録「各国内政関係雑纂 支那ノ部 革命党関係(亡命者ヲ含ム)」の中にあります。

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